沿革


宝永元年1708年8月4日没の祖先からその記録は始まり、代々青山藩の御典医であった。

丹波亀山藩3代藩主青山忠朝 が寛延元年(1748年)8月3日、丹波篠山藩への転封に帯同して現京都府亀山市から篠山に移ったとされている。

中川周斎 別号 通高(安永2年1773年3月7日没、眞性院)

中川北涯 別号恕庵(寛延3年1750年生、文政元年1818年10月29日没、泰了院北涯、篠山誓願寺にて葬)

中川有叙 別号周策(文政8年1825年4月7日没、保光院)、 中川有親;別号眞斎(文政11年1828年11月29日没、眞殊院)

中川有秀(明治4年9月4日没、有徳院)、 中川周斎久太郎;別号有英(明治8年1875年10月29日没、観知院)

中川収斎(明治16年1883年10月18日没、達観院)等を経て8代目まで代々 篠山城で青山藩御典医をつとめた。


9代目中川恕庵(長崎医学校、現長崎大学。大正 5年9月25日没、尚徳院)が明治に現在の篠山市河原町に中川医院を開院。

10代目中川俊一(岡山医学校、現岡山大学。昭和50年4月22日没、浩徳院)が昭和3年に大阪市生野区鶴橋に移設。

11代目中川俊美(大阪市立医学専門学校、現大阪市立大学。平成 8年7月13日没、誓徳院)が昭和 43年に現医院を建築。

12代目中川俊太郎が 中川医院を平成 10年に継承し現在に至る。   

 

 

篠山市河原町に現存する明治12年(1879年)建立の医院です。


 

昭和13年、10代目中川俊一が軍医に出征。

俊一の後ろが陸軍士官学校時代の11代目俊美。原田(旧姓中川)陽子蔵。

現在の中川医院と同じ場所での写真です。

 

 

岡山医学校(現岡山大学医学部)時代の10代目中川俊一。明治45年ごろ。

中段向かって左から2人目。原田(旧姓中川)陽子蔵。

 

 

9代目 中川恕庵
10代目 中川俊一 11代目 中川俊美